医者に病状を説明する場合、私はいつも、こう話していた。
「表現しようのない辛さなんです。なった人でしか解らない辛さで、その度に症状も様々なんです。気持ちの持ち方で切り替えられるようなものでない辛さなんです。」と。
それでも「死なないんだし、気持ちの持ち方で変えられることもありますよ。」と言われることもあったが、こう言われることが嫌でならなかった。自己否定、他者否定の心理ポジションに陥っていた私にとって、こんなこともできないの?といった目で見られている自分が情けなく思えた。

都内では、心療内科を10箇所以上は転々とした。救急車を呼んだり、夜間診療など含めると20近くなる。
病院も様々だ。待ち時間がほとんどない病院、予約していても1時間以上待たされる病院。
問診の方法も様々だった。
事前にスタッフが状況を聞くところ、聞かないところ。
事前に質問紙法をするところ、しないところ。するところでも10問ぐらいで済ますところと、いくつもの質問紙法を多面的にするところもあった。

いろいろなタイプの医師がいた。
嫌なイメージで印象深いのは、冷酷そうな医師だ。
神経質な学者タイプに見えた。

文京区にある病院だった。
初診で言われた時の状況を今でも鮮明に覚えている。
「どんな親なのか話をしてみたい…」
「隔離病棟へ入院でもするか…」
私は苦笑いしているだけだった。診察室を出て、言い返すこともできない自分に対する情けなさと、医師に対する憤りが湧き起った。
会社で紹介を受けた医者だったこともあり、しかたなく数回通うが、診察を受ける度に胸が締め付けられる思いになり、通うのは止めた。
思い出した。この医師には、薬はこれまでとは違い、薬名は忘れたが麻薬のような覚醒させる薬を追加で処方された所だった。頭が割れるように痛くなりすぐ止めた。

又、まるで工場のオートメーションの部品のように扱われているような印象を受けた病院もあった。
赤坂の病院だった。初診で何ヵ月前に予約してようやく自分の番になる。診察室に入るとろくに話もできないまま薬を出される。一人一人の時間が決められてる様な感じだった。

一方で、安心させられる医師もいた。
日大医学部板橋病院から紹介を受けた荻窪にある病院の先生だった 。
日大の精神科に初診で行ったところ、次の予約が近々にとれずに紹介してもらった所だった。
後に心身症の分野で第一人者といわれる著名な医師(故: 桂戴作先生)であることがわかる。
何が私の気持ちをそうさせたかわからないが、唯一、安心できる先生だった。この先生だけだった。
先生に、恐る恐る聞いたことがあった。
「ビールは飲んでも大丈夫ですか?」
「大丈夫だよ」
先生は、穏やか表情だった。想定外の答えで一瞬驚いたものの、内心はホッとした。
(一般的には抗不安薬、 抗うつ薬などにアルコールは控えるものと言われている。)
この先生は長期に渡る主治医となっていた。
ただ当時、東上線の下板橋に住んでいた私にとって、この荻窪にある病院までの往路はきつかった。
その為、近くの病院では、荻窪まで通えない場合に、薬を処方してもらえる様に利用していた。 万一に備えて薬を備蓄する為でもあった。

心の病を扱う病院は、大学病院や町中の心療内科がある。当時より、今は更に多くの診療内科を見かける。多くの病院で診察を受けて思ったことは、同じ私なのに、診療の内容に差があっていいのだろうかということだった。
今は決して、こうは言えるものではないかもしれないが、当時の私の体験から、病院ではなく医師をどう選ぶかが大切だということは言える。

病から抜け出しカウンセラーとして活動をはじめてから、クライアントが通院している心療内科へ同行もしたことが5件ある。
・医師が信用できないから
・医師に聞きづらい
・薬を変えたいことが言えない
というクライエントのためだった。
それは私が当時、実感していたことでもあった。

今思う。
当時、私は医者を頼っていた。治る可能性を見つけてくれるのは医者しかいないと思っていた。治してくれる医者を探していた。
ただ、途中で気づいたのだ。(諦めたのかも知れない)
治してくれる医者、治すことを約束してくれる医者などいない。と。
ある時、あるきっかけから「自分で治す」「治せる」という気持ちを抱いた。
これからが、克服に向けた始まりだった。

続き▶パニック障害を治す目的

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